トライバルタトゥーの再発見・再評価
1960年代頃から、画家パブロ・ピカソによるアフリカ部族造形への傾倒や、民族学者レヴィ・ストロースによる「未開」の再発見と再評価などを通じて、
近代以前の非ヨーロッパ圏の文化・文物に関心が高まりました。
西欧列強による植民地支配の影響もあって「未開」とも「野蛮」ともいわれ、軽蔑され否定されていた世界各地の部族の文化や精神の中には、
近代ヨーロッパの合理主義のそれとは異なる合理性があり、近代人が失ってしまった自然との密接なつながりや力強い生命感が見出されたのです。
ジャズやレゲエなどの音楽、芸術、思想を通じて、部族文化は先進諸国に受け容れられていきました。
タトゥー=入れ墨もまた、各地域独特の多種多様な造形や、シンボリックでスピリチュアルなメッセージ性が認知され、評価されていきました。
トライバルタトゥーの「断絶」
トライバルタトゥーの歴史を見ていくうえで、ひとつ非常に困難な問題があります。
トライバルタトゥーの文化・慣習を担った地域や部族の多くは、西洋列強による植民地支配を受けており、その支配の過程で、
各地ではほぼ例外なく、タトゥーは禁止されたのです。
そのため、タトゥーが禁止された地域・部族の中では、伝統的に担ってきたトライバルタトゥーの歴史に
数十年から数百年にもおよぶ断絶が生じてしまいました。
短い期間の断絶であれば、高齢者で身体にタトゥーをしている生き残りが見つかり、
その地域・部族の独特なタトゥーの技法やデザインが確認できる場合もあります。
しかし断絶が長くなってしまうと、その確認が難しくなる場合もあります。
とはいえ、タトゥーが彫られた人の皮膚がなければどうしようもない、というわけでもありません。
同じ地域・部族で行われている絵画や石彫り、木彫り、木版画などタトゥー以外の表現形態でも、
タトゥーの図柄やシンボリックな意味などを知ることができます。
また植民地化の過程で現地に渡った商人や軍人、キリスト教の宣教師などが、好奇心で現地人のタトゥーを絵画や写真に記録している場合もあります。
そういったものもタトゥーを再発見する手がかりになります。
そういったものすらない場合は、再現はほぼ不可能となります。
こうした困難はありますが、それでも歴史学者や文化人類学者、アーティストらの努力により、
十数カ所の地域・部族のトライバルタトゥーが知られ、再興されています。
それでは次に、地域ごとにトライバルタトゥーを見ていきましょう。
トライバルタトゥー
トライバルデザイン